パソコミ誌『あ』の電脳版

猿若句会直近の[例会特選句集]、連句・友多加座の[最新巻]、私家版辞典[酷誤呆典]、掌エッセイ[信想究迷]などなど

千字文コラム

    不定期刊

ほんの少しの本当 八百の嘘

第三話です。どんな話でしょう。とにかく始めてみます。

 

呆信

 

 

第三話 私は勉強が嫌いでした 

                  

正直書きます。私は勉強が嫌いでした。<でした>と言う過去形は違います。本当は<今も>嫌いです。つまり、<私は以前から今に至るも勉強が嫌いで

す>。他の人はどうなのかと何人かに聞いてみました。殆どの人が「好きだと

か嫌いだとか考えたことがない」でした。でも、私は確信をもって<嫌い>と

言えます。いつの頃から嫌いになったのだろうと考え直したら、小学校三年生の初めての遠足の時だと思い至りました。

戦後の翌年のことで遠足と言っても、南口の農事試験場でした。入口を入って早々、私は割れた牛乳瓶を踏で大怪我をしました。靴の上からでしたが、本人的には血がどくどくと出た印象でした。応急処置だけして、先生の自転車のうしろに乗って医者に行きました。救急車の記憶はありません。足の裏の凹んだところを横に5~6センチ、傷は大きかったが深くはなかったようです。特に目立った治療はなく、医者から家に帰りました。貰ってきた塗り薬はすぐになくなり原始的な民間療法(弁慶草を焼いたもの貼って)で治療しました。

自宅は学校の裏です。3㍍道路を挟んでいるだけです。裏口から入れば四分、

秘密の垣根を潜ってゆけば教室まででも2分の近さです。兄は高等科にいたので登校の方法は種々あったのでしょうが、休みました。傷も二三週間で治っていたのでしょうが休みました。夏休みも近づいていましたが休みました。とにかく、休んでいるのは楽なので休みました。勉強をしなくも済むのが気にいり休みました。傷よりも痛みがあることとして休みました。これは親にはばれたので、学校へは少しずつ出席する日が増えました。しかし、理由をつければ休めることを知りました。やがて夏休みが来て、それも終わり二学期。頭痛だと言っては休み、腹痛だと言っては休むことを覚えていました。もともと病弱のこと、理由をつけては休むことを覚えていました。担任は五十嵐先生(後で特友となる健之君の長兄で、いずれ後述)です。疎開から戻って来た人たちでクラスは60人以上とふくらみ、手がまわらず何も言われず大丈夫でした。

そして三学期。さらに四年になりました。クラス替えは全学年におよび男女組になっています。女の子とは最初は話すこともできなかったが少しずつ馴れます。担任も変わって佐々木先生。席の順を工夫して男女の融和を図るのに積極的です。私に好きな子ができます。その子は、もう今だから時効でいいでしょう。久葉迪子[クバミチコ]さんです。一番きれいで、一番勉強も出来ました。会える楽しみができたので、学校にはなるべく出席するようになります。<勉強は嫌い>だが<学校が好き>になりつつあります。‥‥ここらで1000字?(実は既に100字ほどオーバー‥‥。この項つづく 。)