パソコミ誌『あ』の電脳版

猿若句会直近の[例会特選句集]、連句・友多加座の[最新巻]、私家版辞典[酷誤呆典]、掌エッセイ[信想究迷]などなど

 戦争は必ず勝ち負け決まるまで  呆信

一〇〇〇字文コラム  第五話

 戦争は必ず勝ち負け決まるまで  呆信

八月十五日  戦争に負けた日

 

確か、あの日も暑かった記憶があります。と言うか、何か妙に空気が乾ききっていたという印象だったのを覚えています。家のラジオの調子が悪かったので、大人たちは隣の家に出かけました。人の集まる所には子供たちも一緒に居たかったのですが「子供たちは何処か外で遊んでいろっ!」と、家に上がるのを拒否されました。それでも裏側に廻り中から聞こえるラジオの声に耳を集中させました。12時になり天皇がなにやら喋べり始めたのですが、さっぱり解りません。半ばを過ぎた時に「どうやら戦争は終わるらしい」との中間報告がありました。やがて終わったらしいの後、ラジオの前の大人同志の協議になりました。子供たちだけではなく近所の大人も加わった裏口の人たちに「戦争は終わり、日本は敗けた」との報告です。誰も口を開こうとしないので「日本が敗けるわけないじゃんか!」と怒鳴ってみました。「そうだよな」と何人かが応答した、大きな声にはなりません。大人の中に一人だけラジオの前に加わっていた隣の家のS男ちゃんが、つぶやくように言った。S男さんはその翌年には旧制中学に入学・そして東大にも進学した近所では評判の秀才でした。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍びだってさ」「S男さんにそう聞こえたんなら、そうだよな」仕方なさそうにぞろぞろと解散した。夕方、飛行場の若手将校を名乗る軽飛行機が低空飛行をしてきて伝単(ビラ)[我々二名は、これから特攻を試みる]を撒いていったが、誰もこれを信じず、逆に敗戦が本当だった証拠としました。

 今日は六日です。広島に原爆を落とされた記念日です。そして。八月十五日、(実はパソコン不調のため8・17)戦争関連の日が続きます。しかもウクライナでは今日も戦争が行われているのが現実です。どうしたら戦争がなくなるのでしょう。小さな戦争の記録として、僕の記憶のいくつかを書くつもりでしたが、もう千字・・・・が。

 

 

休題 嘘八百

 

んにちは、今日は7月21日です。だから、私の誕生日、つまり85才になりま

した。しかし、あらためて「誕生日、おめでとう」などと言われても、応えに困

ります。子供の頃から誕生日を祝ったり何かの催しを行う習慣は全くありません。

まぁ、いずれにしても、この年です。やめましょう。実はコラム=第四話、何を書く

かで困っています。①A 前回のテーマを勉強の話に絞る‥‥嫌味になりそう。①B

同テーマを好きな子の話に‥‥他人が読んでも面白く書ける自信がない。②唐突だが

立川の話‥‥資料の読み込み不足。③酒の話‥‥資料の散逸。④巷談・恩田光‥‥

乞御期待。結局まだ手つかずにおり、今月中には間に合いそうにありません。といっ

たわけで休載のお断わり、陳謝です。誠に申し訳ありません。なお、次回(8月)は、

小さな戦争体験を書くつもりです。呆信。

千字文コラム

    不定期刊

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第三話です。どんな話でしょう。とにかく始めてみます。

 

呆信

 

 

第三話 私は勉強が嫌いでした 

                  

正直書きます。私は勉強が嫌いでした。<でした>と言う過去形は違います。本当は<今も>嫌いです。つまり、<私は以前から今に至るも勉強が嫌いで

す>。他の人はどうなのかと何人かに聞いてみました。殆どの人が「好きだと

か嫌いだとか考えたことがない」でした。でも、私は確信をもって<嫌い>と

言えます。いつの頃から嫌いになったのだろうと考え直したら、小学校三年生の初めての遠足の時だと思い至りました。

戦後の翌年のことで遠足と言っても、南口の農事試験場でした。入口を入って早々、私は割れた牛乳瓶を踏で大怪我をしました。靴の上からでしたが、本人的には血がどくどくと出た印象でした。応急処置だけして、先生の自転車のうしろに乗って医者に行きました。救急車の記憶はありません。足の裏の凹んだところを横に5~6センチ、傷は大きかったが深くはなかったようです。特に目立った治療はなく、医者から家に帰りました。貰ってきた塗り薬はすぐになくなり原始的な民間療法(弁慶草を焼いたもの貼って)で治療しました。

自宅は学校の裏です。3㍍道路を挟んでいるだけです。裏口から入れば四分、

秘密の垣根を潜ってゆけば教室まででも2分の近さです。兄は高等科にいたので登校の方法は種々あったのでしょうが、休みました。傷も二三週間で治っていたのでしょうが休みました。夏休みも近づいていましたが休みました。とにかく、休んでいるのは楽なので休みました。勉強をしなくも済むのが気にいり休みました。傷よりも痛みがあることとして休みました。これは親にはばれたので、学校へは少しずつ出席する日が増えました。しかし、理由をつければ休めることを知りました。やがて夏休みが来て、それも終わり二学期。頭痛だと言っては休み、腹痛だと言っては休むことを覚えていました。もともと病弱のこと、理由をつけては休むことを覚えていました。担任は五十嵐先生(後で特友となる健之君の長兄で、いずれ後述)です。疎開から戻って来た人たちでクラスは60人以上とふくらみ、手がまわらず何も言われず大丈夫でした。

そして三学期。さらに四年になりました。クラス替えは全学年におよび男女組になっています。女の子とは最初は話すこともできなかったが少しずつ馴れます。担任も変わって佐々木先生。席の順を工夫して男女の融和を図るのに積極的です。私に好きな子ができます。その子は、もう今だから時効でいいでしょう。久葉迪子[クバミチコ]さんです。一番きれいで、一番勉強も出来ました。会える楽しみができたので、学校にはなるべく出席するようになります。<勉強は嫌い>だが<学校が好き>になりつつあります。‥‥ここらで1000字?(実は既に100字ほどオーバー‥‥。この項つづく 。)

千字文コラム《第二話 愛称で呼び合う家族》

ほんの少しの本当 八百の嘘

お待たせしました、第二話です。呆信

 

 

第二話 愛称で呼び合う家族

 

愛称の話を続けます。学区制が変更になり、通称官舎と呼ばれた曙町の最北端から染矢清一郎なる男が転校してきた。お互い勉強嫌いだが読書好きな二人が仲良くなって、初めて彼の家を訪ねてびっくりした。家族全員がまるで徒名で呼び合うように愛称で呼び合っているのだ。

まず父親、実はこの人だけが今思いだせない。仮に[フェッサー](プロフェッサーの頭捨て)とでもしておこう。当時は失業者で家に何時でも居り、時々庭で試験管をいじっていた。忘れた頃の仄聞によれば、某科学メーカーの研究所にスカウトされたと聞く。次に母親だが[カーマ]。後に大学の時の仏典の授業で習って解った。≪サンスクリット≫(古代インドアーリア語)で「母親」だ。誰がつけたかは解らないが偶然の一致かもしれない。夫婦で同じ失業者だがカ―マは失業者対策事業なる名目で競輪場に勤務し偉い役付だった。妹が[オッコン]。弟が[キンベェ]で、共に命名意図は解らない。凄じいのは彼の家を訪ねると、いつの間にか呼称がつけられていることだ。[ゲバ](姿形)さん、[トッちゃん](坊やが略)、ちょっと長いが(どん百姓・アーノルド)で[ファーマー]くん、ただ一人呼称が決まっていないと思った先輩がアクセントは「捥ぎる]の「モギル」で、陰で[モギ]ッちゃんと呼ばれ始めたが茂木が本名だった。

なお、彼,本人は[ウーワ]だが、自分への呼称を気にいっているらしく高校生以降の年賀状には[宇和山人]のサイン入りで奇妙な狂歌風の歌が詠まれていた。では、私にはどんな呼び名が待っていたのだろうか? [ノッポ]さん。単に背が高いだけではつまらないと不満をぶつけたら、フエッサー氏曰く「そんな意図はないよ」「いつもノォーと現われ知らぬ間にポォーと消えていたからノォーポォーさんだったよ」と嘯かれた。それよりも私が高校二年生になって本格的に俳句を始めて俳号を[呆信]と決めて各所で使いだした。これを文学少年キンベエ清亜がどこかで見つけてきて最初に、次いで宇和山人が戯れにでも俳号で呼びかけてくれた。それはそれとして、恥ずかしくも嬉しいことだった。

まだ俳号が通じる唯一の場所だったから。…ここらで千字文

 

 

 

千字文コラム 不定期刊

ほんの少しの本当 八百の嘘

少しの嘘なら平気で書きます 面白ければの話 どうせ真実なんて追求できないのなら

本当らしくは書きますが 真実は不明です。当初 4月1日スタートの予定でしたが、

間にあいませんでした。月内にはオープンは出来ました。ま、いいか。呆信

 

千字文コラム 《第一話 オミチョバチャンとマコちゃん》

第一話 オミチョバチャンとマコちゃん

 

高橋金蔵・シゲ夫妻の昭和十年代(1935~1945年)は波瀾万丈だった。だとしたら信夫年尾(シノブトシヲ)・民江夫妻の十年も波瀾八千丈位だったろう。立川市仲町(現曙町)の夜店通りの高橋家。昭和八年、嫁に行った民江に初孫が生まれた。ところが北区王子・滝野川の女中奉公先から孫・實(ミツル)を連れ三人で出奔家出を謀ったので勘当。十年、長女・啓子(ヨシコ)誕生、解決せず。意気消沈。十二年、人を介して信夫氏に「勘当を解く 、高橋を名乗ってくれ」と懇願。四人入籍、解決。次男・信(マコト)誕生。つまり、この年、私が生まれた。そして十五年、謎の婦人がわが家に同居。満州奉天(?)から従軍看護婦時代に銃弾を受け名誉の怪我で帰国。まだ片言の幼児言葉しか話せない僕は「オミチョバチャン」と呼んでいた。僕も皆からは「マコちゃん」と呼ばれ続けていた。十八年、戦争による強制疎開は自分らで家を壊し、曙小学校裏に運んで疎開。そして二十年、敗戦で終戦。戦後、時代は波乱が先に満ちていた。そして、いつの間にか彼女は台東区菊屋橋の小泉三十郎(仏事の細工大工)家に嫁し、久子(愛称チャコ)なる美女の義母になっていた。

時は過ぎ二十五年三月、母が「叔母さんから信の中学進学祝いに、叔父さんに作ってもらった本箱を送ったとさ」と私に伝えた。二日後、着便電話があり、早速兄に頼み、リヤカーで駅に取りに行った。本棚を見て、欣喜雀躍。しばらくして母が言った。「マコちゃん、とりあえずお光叔母さんにお礼の電話を入れなさい」「お光叔母さん?」「誰だ?」私に本棚を送ってくれる人?」そこで初めて気が付いた。天啓!そう言えば昨年末頃、中学の進学祝に何が欲しいと問われて本棚を所望したことを。「オミチョバチャンだ」お光叔母さとオミチョバチャンは同一人物なのだ。なぜでこんなことに気がつかなかったのだろう。あわてて電話口に飛んだ。電話にはチャコちゃんがでた。「あっ、信。お光叔母さん居る!」三人の笑声が聞こえる、そして「はい叔母さんっよ。私より先にお礼礼を言わなければならない人がいるでしょう。あなた、マコちゃんから電話」また、三人の笑い声。小泉家では、叔母さんの「私は信から赤ちゃん言葉でなく、まともに呼ばれるようになるのは何時のことだろうね」が話題だったそうである……。

 

信想究迷=⁂ 呆信賞 ⁂

                    

◆ 闇汁の納豆にまじる柘榴かな         会津八一

 

◆ 寒からう痒からう人に逢ひたからう     正岡子規

 

◆ 死骸や秋風かよふ鼻の穴          飯田蛇笏

 

◆ では剥いてやろ空豆の宇宙服          手島渚男

 

◆ ここもまた誰かの故郷氷水          神野紗季

 

「解題」

私の旧ホームページには「信想究迷」と題する掌エッセイ欄がありました。その中の一つに毎年『呆信賞』と宣いて、私が前年に鑑賞した俳句作品の中から五作品を選んで発表してきたものがあります。とは言っても賞品・賞金が無いことはもちろん、権威も特典も全く無いものです。このところ例のコロナ騒ぎで例会を四回も休んでいたので、このブログの例会通信も休載になっていました。そこで思い出したのがこのコラムです。遅ればせながら令和二年度の『呆信賞』を選んでみたのが上記です。

第一席は最初から会津八一大先輩のこの句に決めていました。八一先生が俳句を嗜んでいたなぞ全く知らず、この句を見つけた時は嬉しくなって慌ててメモしました。ところがいざ掲載しようとしたら、そう秀作でもなく句意も判りにくいものでした。一応予備知識を仕入れておこうとパソコンで調べたところ、どうやら先輩も最初は俳句をやっていたようで、早稲田の学生時代に『東北日報』の俳句欄の選者をやっていたとの記録があるようです。句意だけは牽強付会でやっておきます。

《当時、学生の間で流行っていた「闇汁」を行った時、まず口にしたのは納豆だった。今回の汁はこれも当時東北辺で流行っていた「なっと汁」だなと異物でないことに安堵した。が、しかし次に口にしたのは柘榴だったので、油断はならぬと警戒した》

ただ先に記したように先生の句は早とちりで写し違いかもしれません。気がついた方がおりましたらお教えください。